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映画『私が、生きる肌』ペドロ・アルモドバル監督
プロダクションノートより。

(2012.05.30)

独特のキッチュな映像意匠、美しいけど少々奇妙な登場人物とそのキャラクター造形、
過剰気味な愛ゆえに引き起こされる事件と、余韻あることの顛末、
印象的に挿入される音楽やポップ・カルチャーへのオマージュ……
公開するたびに話題を呼ぶペドロ・アルモドバル監督の映画作品。
その最新作『私が、生きる肌』では、
フランスの作家ティエリー・ジョンケのミステリー『蜘蛛の微笑み』を脚色、
監督が見出したともいえる俳優、アントニオ・バンデラスと22年ぶりに組み、
ノワール色の強い、新たなるアルモドバル・ワールドを創りだしています。
監督のプロダクションノートより『私が、生きる肌』、作品のテーマについて。

ショートシノプシス

交通事故で妻が大やけどを負って以来、著名な形成外科医ロバート・レジャード博士は、それがあれば彼女を救えたかもしれない新種の皮膚の開発に没頭してきた。12年後、自分の研究室で、触れるには敏感だが、あらゆる攻撃から体の内外を保護できる皮膚の培養に成功する。そしてそれを人間にとって最も大きな器官である身体全体で試そうとするロバート。彼はその皮膚を得るために、細胞療法によってもたらされる可能性に賭けようとしていた。

さらに数年の研究と実験を繰り返すロバートに必要なものは、人間モルモットと共犯者、そして良心の呵責なき精神。だが良心の呵責など元々もっていないのだから、問題にはならない。次に、生まれた時から彼の面倒をみてきたマリリアが、最も忠実な共犯者となる。最後に人間モルモットだが……。
 毎年、何十人もの若い男女が家から姿を消している。多くの場合、その理由は自分たち自身の意思である。だが、その若者たちのひとりがエル・シガラルの豪勢な邸宅を、ロバートとマリリアとともにシェアすることになる。しかも自らの意思に反して……。


左・エル・シガラルのロベル邸の一室でヨガのポーズをとるヴェラ(エレナ・アナヤ)。実は彼女は自由の身ではない。壁には一面、ヴェラによる日記が書かれている。Photo by José Haro © El Deseo
右・ヴェラの世話をするマリリア(マリッサ・パレデス)には、ある秘密があった。ロベル邸にトラのコスプレの男がやって来たことで、すべてが明るみに。Photo by José Haro © El Deseo

右・ロベル(アントニオ・バンデラス)は天才的な形成外科であった。12年前、最愛の妻は駆け落ちの際、交通事故で負った火傷を苦に自殺。”完璧な肌”さえあれば、妻は救えたかもしれない、と実験に没頭するように。Photo by Lucía Faraig © El Deseo
左・ロベルは、愛娘を傷つけられたことから復讐へ走る。それがもうひとつの復讐を産み……。Photo by José Haro © El Deseo
映画について

元には戻れない一連の行為、引き返すことのできない道、一方通行の旅。本作で描かれるのは、そういう道程のひとつである。主人公は自分の意思に反してそういう道のひとつを旅することになる。彼女は引き返せない旅に強引に引き込まれてしまうのである。カフカの不条理劇のように、彼女への判決は、彼女にとってたったひとりの宿敵で構成された陪審員によって宣告される。したがってその判決には、凄まじい復讐の形相が呈している。

本作で描かれるのは、そんな復讐の物語である。

映画は、木々に囲まれた邸宅から始まる。その家はエル・シガラルというのどかで美しい場所に立っている。石壁と高い鉄格子の門に守られた家。同じく鉄格子がついたその邸宅の窓のひとつに、動いている女性の姿が見える。その部屋の中にはいると、複雑なヨガのポーズをとるその女性が裸のように見える。だが近づいていくと、裸ではない。体全体が肌色のボディストッキングで覆われ、まるで第二の肌のように彼女にまとわりついている。キッチンでは、家を切り盛りするマリリアがその女性の朝食を準備している。それからマリリアは給仕用のワゴンに朝食を載せ、その部屋にまっすぐ向かいドアを開ける。

この最初のシーンから、エル・シガラルは自然の中の刑務所のように描かれる。孤立した場所、外部の目に触れない場所として。そのシーンに登場するのがヴェラである。ヨガのポーズに集中する囚われの女性。そして彼女の看守マリリアが無表情に毎日の仕事をこなしている。だがエル・シガラルの日々はいつもそれほど平和というわけではなかった。

6年間の強制的な幽閉で、ヴェラは、とりわけ人間の身体にとって最も重要な部分――彼女自身の肌を失っていた。文字通り、彼女は自分の肌を取り除かれていたのだ。

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肌は他者と我々を分ける境界線である。それが我々の属す仲間を決定する。生物学的にも地理学的にも、肌が我々の感情を反映し、我々のルーツを映し出すのだ。だが肌が精神状態を反映することは多いが、肌そのものが精神というわけではない。ヴェラの肌は変わったが、彼女は自分自身であることを失ったわけではないのだ。このアイデンティティと、そしてその傷つけることのできない性質が本作のもうひとつのテーマである。とにかく、自分の肌を失うなど残酷極まりないことだ! 多くの損失の中でたったひとつヴェラに残されたもの、それはヴェラの願望によって、あるいは手術室で執刀するロバート博士の手によってもたらされる死である。だが彼女は生来のサバイバーだった。多くの困難ののちに、彼女は「自分の肌の内側で生きることを学ぼう」と決心する。たとえそれがロバート博士に押し付けられた肌であったとしても。いったん第二の肌を受け入れたヴェラは、生き残るために最も大切な2番目の決断をする。「待つことを学ぼう」

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エリアス・カネッティは著書「Book of Dead People」のメモの中で、ヴェラの人生に対する態度を非常によく表している言葉“死の敵”について書いている:“……檻の鉄格子の向こう側にいるトラが途切れることのない歩調で動き続けるのは、救済のほんの束の間の瞬間さえ見逃さないためである” 面白いことに、カネッティが述べた束の間の瞬間が、トラの形で、あるいはトラの衣装を身に着けた人間の形でヴェラのもとにやってくる。

ある日、カーニバルの最中に、トラの衣装を着た男が、ヴェラが囚われている部屋の封印されたドアのところまで入り込んでくる。この出来事がエル・シガラルに住む3人の住人たちの張りつめた緊張感を破る結果になる。逆説的に、カーニバルの衣装を着た人間が入った瞬間、3人は自分たちの仮面を脱ぎ去り、それによって最後の悲劇が暗い影を投げかけ始め、3人の当事者たちの誰もがそれを防ぐことができなくなるのだ。

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こういった特徴的な物語から、私はルイス・ブニュエルやアルフレッド・ヒチコック、そしてフリッツ・ラングのゴシックからノワールまでのすべての映画を思い起こした。さらに、ポップな雰囲気のハマー社のホラー映画や、もっとサイケデリックで低俗な映画のジャンル“イタリアン・ジャッロ”(ダリオ・アルジェント、マリオ・バーヴァ、ウンベルト・レンツィ、ルーチョ・フルチなど)、それにもちろん『顔のない眼』(59)でジョルジュ・フランジュが描いた叙情主義も連想した。

こういったすべてのことを参考にしたのち、私はそのどれもが、この映画で私が必要とするものに当てはまらないことに気づいた。数か月間私は真剣に、フリッツ・ラングとF・W・ムルナウに対する賛辞を込めて、モノクロ画面に解説とセリフの字幕を付けたサイレント映画を作ろうかと考えていた。数か月悩んだ末に、私は自分のやり方でいこう、そして直観に従おうと決心した。結局いつもそうなるのだが…。ジャンル映画の巨匠たちの陰に脅かされることなく(といってもこの映画がどのジャンルに属するのか、私にはわからないということも理由のひとつだが)、そういった映画に対する自分の記憶を断ち切ろうとするように。私にわかっていたのは、簡素な語り口の、雄弁で自由なビジュアルを前面に押し出さなくてはならないということだった。しかも、たくさんの血が楕円形を描いて溢れ出たとしても決してむごたらしくならないこと。撮影前にこういった前提からはいるのは初めてのことではなかったが、この映画は特にそうすべきだと思った。

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この映画製作の行程を私は撮影監督のホセ・ルイス・アルカイネとともに歩んだ。彼には私がしたいことを、というよりむしろ私がしたくないことを説明しなかった。この映画の映像にいちばん適した密度、輝き、暗さをどうすれば与えることができるのか、彼にはちゃんとわかっていたからだ。音楽家のアルベルト・イグレシアスは、私が知る限り、自惚れのない、精力的で、多才で、辛抱強い、唯一のアーティストだと思う。私が満足しないときは、1つの方向性からその反対の方向性までを考えることができる。常に物語の語り口とそれに対する私の思いを感じ取ってくれる。そして俳優たちは、明らかに不快感のあるシーンがいくつかあったにもかかわらず、物惜しみすることなく、正確に演じてくれた。全員の名前をあげたいと思う。アントニオ・バンデラス、エレナ・アナヤ、マリサ・パレデス、ジャン・コルネット、ロベルト・アラモ、ブランカ・スアレス、エデュアルド・フェルナンデス、スシ・サンチェス、バーバラ・レニー、そしてホセ・ルイス・ゴメス。

■ペドロ・アルモドバル プロフィール

Pedro Almodóvar/映画監督

1949年、スペインのカスティーリャ=ラ・マンチャ州生まれ、17歳でマドリッドへ。電電公社に勤めながらコミック、パンクロック・グループ『アルモドバル&マクナマラ』、演劇、小説などのさまざまな分野でエネルギッシュに活動、フランコ政権崩壊後のマドリッドで花開いたムーブメント「モビーダ・マドリレーニャ(Movida Madrileña)」の中心人物のひとりとなった。映画作りは独学、自主制作作品『Pepi, Luci, Bom y otras chicas del monton』(80)を監督。アントニオ・バンデラスを匂いフェチのテロリスト役で起用した『セクシリア』(82)、『バチあたり修道院の最期』(83)、『グロリアの憂鬱 / セックスとドラッグと殺人』(84)、『マタドール』(86)と次々に作品を発表。『欲望の法則』(87)制作に際して、弟のアグスティンと制作会社『エル・デセオSA』を設立。不倫に悩む女性声優役をカルメン・マウラが演じた新しい感覚のシット・コム的作品『神経衰弱ぎりぎりの女たち』(88)で世界的に注目されるように。『アタメ』(89)、『ハイヒール』(91)、『キカ』(93)、『私の秘密の花』(95)、『ライブ・フレッシュ』(97)と、おしゃれで、ちょっと奇妙な愛の映画を作る監督として知名度を上げた。98年の『オール・アバウト・マイ・マザー』でアカデミー外国語映画賞、カンヌ国際映画祭監督賞、ゴールデン・グローブ賞、セザール賞、英国アカデミー賞、ゴヤ賞など多くの賞を獲得。続く『トーク・トゥ・ハー』(02)はアカデミー脚本賞を受賞、ヨーロッパを代表する名匠としての地位を確立。『バッド・エデュケーション』(04)はカンヌ映画祭オープニング作品となり、ニューヨーク映画批評家協会賞外国語映画賞受賞。ペネロペ・クルース主演『ボルベール〈帰郷〉』(06)でカンヌ映画祭最優秀脚本賞、出演女優全員が最優秀女優賞に輝いた。『抱擁のかけら』(09)、『私が、生きる肌』(11)では、美しい女性を描きながら、男の強すぎる愛が招く驚愕のストーリーを展開している。

※『Tachen 』よりポール・ダンカン、バルバラ・ぺイロー によるペドロ・アルモドバル監督の大版アーカイブ『Pedro Almodovar Archive』発売中。


ペドロ・アルモドバル監督。Photo by Lucía Faraig ©El Deseo

『私が、生きる肌』

2012年5月26日(土)TOHOシネマズシャンテ、シネマライズ他全国ロードショー

出演:アントニオ・バンデラス、エレナ・アナヤ、マリサ・パレデス、ジャン・コルネット、ロベルト・アラモ、エデュアルド・フェルナンデス、ブランカ・スアレス、スシ・サンチェス、バーバラ・レニー、フェルナンド・カヨ、ホセ・ルイス・ゴメス

監督、脚本:ペドロ・アルモドバル
脚本:アグスティン・アルモドバル

製作:アグスティン・アルモドバル
製作:エステル・ガルシア
音楽:アルベルト・イグレシアス
編集:ホセ・サルセド
撮影:ホセ・ルイス・アルカイネ
美術:アンチョン・ゴメス
製作補:バーバラ・ペイロ
プロダクション・ディレクター:トニ・ノヴェッラ
音響:イヴァン・マリン
音響編集:ペラヨ・グティエレス
メイク:カルメル・ソレル
ヘアー:マロノ・カレーテロ
衣装:パコ・デルガド、ジャン=ポール・ゴルチエ

原作:「蜘蛛の微笑」ティエリー・ジョンケ著(ガリマール出版)based on:“Mygale” by Thierry Jonquet, Éditions Gallimard


マリリア(マリッサ・パレデス)にロベルの生い立ちを聴くヴェラ(エレナ・アナヤ)。Photo by José Haro © El Deseo